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キャラとは?  

どうも、地震よりこの方忙しかったり暇になったりで目眩を覚える唯朱です。

今日はよもやま話。

【キャラ】とはなんぞや?
というお題目でだらだらと文章を書きます。

はい、【キャラ】。色んな場面で使われる言葉ですね。今回はその中でも、メディア分野、オタク文化、創作における【キャラ】についてです。

まずは【キャラ】とは略語なので、元になる【キャラクター】という単語。これの意味からはっきりさせましょう。

英語辞書で【Character】を調べると、性格や性質といった個人の特徴に対する総称であることがわかります。
つまり「あの人の【キャラクター】(性格や性質)は良いよね」という使い方が正しいということらしいです。
まあ大概においての、一般的な【Character】の使われ方ですね。

しかし、最近(というかここ十数年?)では【Character=キャラクター=キャラ】は別の使われ方をする事があります。
つまり、漫画やアニメや小説などの創作作品に登場する、現実には存在しない人物の代名詞としてです。
最近では「アニメの【キャラ】」と言えば、「アニメの登場人物」を示す言葉となります。

さて、たぶんこの用法の成り立ちは「あの【キャラクター】が~」といった言い回しが「性格を表す」=「個人を表す」と曖昧性を帯びて結果的に現在のような用法になったのかもしれませんし、そうではないかもしれませんが、そもそも成り立ちなんて考えても意味はあまりありません。
ここで私が言いたい事は、作中の登場人物を【キャラ】と言い表す文化とはなんぞや。この【キャラ】とはいったい何者なのかということです。

ぐだぐだと凡例と反証を積み重ねてもつまらないので、結論から言いますと『【キャラ】という言葉は登場人物個人の記号化を促す言葉』だと私は思っています。
そして『【キャラ】という言葉は登場人物の作中からの乖離を促す代名詞』でもあると思っています。

前段でもあげた通り、【登場人物】=【キャラ】という変換は多分に行われています。
これは、つまり創作作品内において、いち登場人物に過ぎない、いわば作品に縛られている魅力的な人物の性格や性質=「個性」をキャラという言葉で抜き出し、それを代名詞として用いる事で、それ単体でも成り立つようにする作業なのだと思います。

例えば、「けいおんのあずさという登場人物が好き」と「けいおんのあずさという【キャラ】が好き」この二つを見比べた時に、前者はけいおんという作品を、後者はあずさという個人をそれぞれ尊重しているように感じます。

本来、想像の産物である創作作品の登場人物は、絶対的に作品に縛られています。
作品がなくては成り立たないのが彼らです(でした)。
しかし、それはつまり作品の終了が登場人物の死と同義でもあります。
彼らが作品の中で生き、作品の中の世界に縛られている以上、それは仕方ない事です。
作品が終わり物語が閉じてしまえば、彼らにその後はありません。それは厳然たる世界の終息とそこに息づいていた人々の死です。
私はそれでもいいと、それだからこその物語であると思っています。ですが皆が皆、愛着がある登場人物の死を受け入れられるものではありません。
そこで登場人物の延命のために使われる言葉が【キャラ】というわけです。
“登場”人物と作品でくくるのではなく、【キャラクター】という“記号”で言い表すことで、作品から切り離し、ひとりの人物として成立させる。
これこそが、【キャラ】と言う言葉の意義であり、【キャラクター文化】というものであると私は思います。

物語から切り離し、登場人物に生を与え、大袈裟に言えば個人として認めること。
これは、作品の受け手側が作って来た、いわば好きな人物に生を与えたいという願望が根元であるのでしょう。

本来的には、物語の作者にとっては登場人物という言葉は崩してはいけないものです。
あくまでも自分の作品である以上は、作品を終わらせる責任、世界を閉める役割が作者にはあります。
いつまでもネバーエンディングでは作品としては褒められたものではないというのが、創作の共通です。
登場人物を【キャラ】として扱い、その“個人”としてしまった人物をいつまでも生かし続けるなど、創作物の作者としてはあまりに中途半端過ぎます。

しかし、昨今の受け手が求めるのはやはり【キャラ】として登場人物を生かし続ける事でしょう。好きな人に生き続けて欲しいのは人の情というものです。

そこで生まれたのが【キャラありき】という創作スタイルです。
これは魅力的な物語を生み出すことを主眼に置くのではなく、魅力的な【キャラ】を“デザイン”することを主眼に置いた創作スタイルでしょう。世界を創造するのではなく、人を創造する作品作りです。

本来は世界を示し、そこに息づく人を紹介して、初めて人物として認めさせるという作業を、強烈な魅力を持たせた登場人物を生み出し、それを受け手に【キャラ】だと伝え、受け手が自発的に人物として彰華させるという荒業で認めさせる。その上で世界を示し、Roll playを行う。
そういった、【キャラ】を尊重し、あくまでも登場人物はあなた方受け手の物ですよと割り切る事で、受け手が人物を受け入れ易くし、更には熱をあげやすくさせる。
つまり、キャラの魅力がそのままダイレクトに作品の魅力になるのです。
だから【キャラありき】であり【キャラ】の“デザイン”をする手法だと私は書きました。

最近のオタクマーケットの風潮はこの【キャラありき】が主流でしょう。
いえ、もうそれも古いかも知れません。
つまり初音ミクに代表される【キャラあそび】とも言える、受け手に【キャラ】を作らせてそれを受け手が共有するソーシャル的な物が主流になりつつあるのかも知れません。

さて、ここまでぐだぐたと書きましたが、私はこの文章で何か主張したいことがあるわけではありません。ただ私自身が【キャラ】という言葉が嫌いであり、(実はチャットとかでも自作小説の人物をキャラと称した事はありません)その正体を何となく考えてみようと思い書き連ねただけです。

私は創作物の人物は登場人物という言葉が非常にしっくり来る人間なのですが、みなさんはどうですか?

と、結論をぶん投げたところでおしまいです。
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コメント

なーる。言い換えれば、登場人物を作品内の何よりも重視する昨今の風潮の根底には、登場人物の従属先が作品から受信者へ移った変化があるんですね(風潮、と言ってもその風潮が存在する範囲は限定的ですけど)。

根底には、快楽主義者の読者が増えてきた、あるいは多くの読者が隠し持っていた快楽主義的な面が露になってきた、ということがあると僕は考えています。
作品のほとんどは登場人物に感情移入させてなんぼのものですから、読者は登場人物に同情して作品のプロットに不満を持つことが多い。
するとその不満が満たされる=登場人物が幸福になるハッピーエンドの物語は、言わばその読者にとって快楽を享受する一手段となる。
だから作品に享楽を求める、昨今では多くなってしまった読者達は、登場人物がどうなるかばかりに目がいく。その読者達にとって登場人物とは、もはや舞台装置ではなく、舞台の意義そのものの存在、「キャラ」である・・・・・・
享楽を求める読者達は、物語の本質など無かったものにし、登場人物をキャラとして物語の中心に据えて楽しんでいるのでしょう。
こんな所ですかね。

快楽を何より重視する、という事と同意なのですから、作品よりキャラの方が大事、というスタンスに対して僕は嫌悪感を隠せません。
ですんで唯朱さんと同意見、僕はキャラを愛したり作ったり(むしろ提供?)したくない。
何々してほしい、何々すべきだ、何々してはならない、何々について考えてほしい、このような本質あってこその文学であり作品であるわけで、読者に対してその本質を効果的に紹介するために作用するものの一つが、登場人物なのではないでしょうか。

長文&随想的文章、失礼しました

woe #- | URL
2011/03/31 00:59 | edit

どうもをえさん。

まあキャラクター文化というのはミッキーマウスみたいなものであったり、下手をすれば神話、神様といったものから連綿と受け継がれてきた由緒正しいものな気もします。

ただ、オタクやってて最近みんながキャラを声高に叫ぶ状態にどうにも違和感が拭えないのも事実でした。
そこでふと気付いたのが、キャラの乖離だったわけです。

快楽主義というのは確かに的を得た表し方ですね。
私自身も潔癖というわけではなく、安易な快楽を教授してしまうこともあります。

ただ、せめて自分の創作作品は一線を引いて、読者がキャラを引き出したくなるような登場人物を描く事が出来たらなあと思っています。

唯朱 #- | URL
2011/03/31 10:39 | edit

荒業が本来搦め手の筈なのに、スタンダード化しているのが現代のオタク文化というわけか。
確かに、何処を見てもそんな感じは多少なりともする。ツインテ、ツンデレ、ロリなんかと言った所謂「属性」を前面に押し出すことで、人物のキャッチから物語を後付けする。本来のスタイルの逆となる構成。
結果的にそれで成功して、その世界が十二分に魅力を引き出せる理想的な構図を保持(粗積みでも建つことが)できればそれでいい(乱暴な表現ですが、勝てば官軍というやつです)とは思うけれど、ううむ食傷ぎみではありますね。
漫画や漫画というのも、コマに映る表情やうちなる葛藤、読者の予想を超えた奥底の演算から引き出される意外なセリフがあると釘付けにされる。何が言いたいかってと、最終的にはメリハリやいかに中身があるかが大事なんじゃないかな、とおれは思いますわ。ただ表面的な「かわいい」「萌える」を売りにしているのは、商売が絡んで原作者の意図から離れているケースも多い。そんな高尚じゃない、かわいいキャラを描きたいんだって人もいるし、一概に二元では語れぬゆえ致し方なしかと。
半ばキャラありきの顧客と化しているおれに偉そうな事は言えんし、自分の作る人物像も「設定」というレッテルから性格や行動に沿わせて動かしている節はあるから、耳が痛い話ではある。
でも、主張を乗せながらもただのテーゼの傀儡ではなく、彼らの生き死にを過程を踏まえた上で過ごさせてやりたいという願望に嘘偽りをつきたくはない。というのが思うところです。
結局、自分から発した最早別人たちを、無下には扱えないのですよ。生まれいでた彼らにも権利はある、そしてそれを行使するのは、その瞳に彼らを映し出す取り手に他ならない。
発信者と受け取り手の間にさまざまな思惑・弊害はあれど、なんとか届くのであればそれはつまりは架空の垣根を超えた人物として成立し得るのではないでしょうか。両者に熱意が無くしては成り立たない訳ですし。
ちょっと漬かり過ぎですかねw

良心に任せる、というと脆弱かも知れませんが。熱心な人がいればそれだけで彼らは出力を取り戻すことができるのではないかな。

ら #- | URL
2011/04/01 16:38 | edit

すっかり返事が遅くなりました。自分のブログを一週間も放置するあたり私も阿呆です。
さて、大仰な題目をぶち上げてはいますが、文化とか風潮なんてものは、好きか嫌いかの二択で片付く問題だと私は思います。たまたま私がキャラ文化そんなに好きくないだけの話で、こと創作なんてものは作者によって千差万別、縦横無尽な捉え方があって当たり前だと思います。だから、何かを表現出来てる時点で、それは立派な創作であり、登場人物が容姿や属性や設定が先にあろうと卑下するものではないはずです。ただ、それを好きか嫌いかが私の聞いてみたい事であります。

唯朱 #- | URL
2011/04/08 16:04 | edit

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